技術資料

やわらかサイエンス

大谷石 -8世紀から続く身近な石材-(中編)

担当:藤原 靖
2020.02

大谷石は古くから人びとの生活と深くかかわり、大谷は信仰の拠点としても栄えてきました。その理由として大谷石の持つ加工のしやすさがあったと考えられます。中編では、大谷石の建築資材としての利用と採掘と運搬の歴史についてみていきます。

■建築資材としての利用の歴史

古墳時代には横穴式石室の資材として、奈良時代には国分寺などの大型建築物の基礎の石材に使用されています。平安時代には築城用の資材や神社仏閣での石塔などにも広く使われています。江戸時代になると大谷石の利用が本格化します。徳川家康の側近であった本多正純が宇都宮城の普請で大谷石を使い、旧本丸跡では大谷石を組んだ地下道が発見されているそうです。大谷石の利用は石垣、墓石、石塔等と多様化が進む中で、特に石蔵が多かったそうです。

江戸後期から大正初期までの古い石蔵は、木造の軸組に石を張った張石だそうです。防火性を高めるために、外壁に土や漆喰を塗ったものが土蔵です。土や漆喰ではなく、大谷石を張ったものが石蔵です。

明治になると西洋式のレンガ造や石造の建物が増え、大谷石の輸送量が多くなるため、石蔵も積石工法になっていきました。積石構造は、鉄道の発達に伴い駅構内のホームや橋梁の基礎にも使用されました。
ホテルや銀行などの建築物は石造りですが、大谷石を使った旧帝国ホテルが関東大震災での火災から焼け残り、大谷石の耐震・耐火性が認められたそうです。

第二次世界大戦後は、経済成長に伴い宅地造成、工業団地造成での土止め用の土木資材として大量に利用され、これが利用の最盛期となりました。

左:旧帝国ホテル・ライト館(大正12年(1923年)建築、フランク・ロイド設計、愛知県犬山市の明治村)、右:横山郷土館(明治42~43年(1909~1910)建築、栃木県栃木市入舟町)
出典:左右ともに全国の大谷石の建造物 | NPO法人 大谷石研究会より抜粋
左:旧帝国ホテル・ライト館(大正12年(1923年)建築、フランク・ロイド設計、愛知県犬山市の明治村)
右:横山郷土館(明治42~43年(1909~1910)建築、栃木県栃木市入舟町)
出典:左右ともに全国の大谷石の建造物 | NPO法人 大谷石研究会より抜粋

■大谷石の採掘と運搬

大谷石は柔らかい石なので、ノミとハンマーやツルハシを使った手掘りで採掘されていました。最近になって機械による石材裁断機というものが開発され、機械化されています。この機械化によって、大きさが決められた規格品が生産されるようになりました。

手掘りでは1日1人が切り出せる量は、六十石(ろくといし、180mm×300mm×900mm)で12本程度だそうです。1本切り出すのに3,600回もツルハシを振るったそうです。大正14年(1925年)の六十石(ろくといし)の価格は、1本あたり1円3銭(米価基準で換算すると約1,365円)だったそうです。現在は約7,500円です。

手掘りで掘り出された大谷石は重く、1本が80kgくらいあるそうです。これを人が背負子を使って背負って運びだします。大変な作業ですね。その後は、馬の背中、馬車、荷車なで運ばれて行きました。
江戸時代には大谷石の用途が多様化し普及します。最大の消費地である江戸には、水運を利用して隅田川沿いまで運んでいたそうです。使った河川は鬼怒川と近くの姿川の二説があるそうです。

石材運搬イメージ

明治30年(1897年)には、宇都宮軌道運輸株式会社より宇都宮石材軌道が人車軌道として敷設されました。石材は長さ1.5m・幅0.9mのトロッコ(貨車)で車夫と呼ばれる2人で押して運搬していたそうです。石材を載せた重量は約2トンです。軌道は石材だけでなく、人車(客車)と呼ばれる定員6名の車両で人も運んでいたそうです。

石材の鉄道輸送はその後紆余曲折があり、昭和6年(1931年)に宇都宮石材軌道は東武鉄道に吸収合併されます。周辺に6軌道あった人車軌道は、昭和の時代の中で徐々に姿を消していきました。

中編はここまでです。後編は大谷石の石材としての味わいと新しい用途や地下採掘場跡の巨大空間の活用について紹介します。


※資料等最終参照日:2020年2月

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