
「空気」から「パン」を作る「サッカーボール」
いよいよ2010ワールドカップが開幕しました。今回の日本チームはどこまで勝ち進んで行くでしょうか。
サッカーボールと言えば白黒模様がスタンダードでしたが、今ではファッションセンスあふれる色使いの物が多くなっています。デザインは変われども、正六角形20枚と正五角形12枚から出来上がっているその構造は変わっていないようです。
今回のやわらかサイエンスでは、この「サッカーボール」によって、「空気」を「パン」に変える技術についてご紹介したいと思います。

毛利元就は三兄弟の結束を強く訴えかけました。
「一本では脆い矢も三本まとめた束になれば頑丈になる」
有名な「三本の矢」の教えです。
実は化学の世界にも、似たような話があります。
スナック菓子の袋が膨らんで売られていることはご存知でしょうか。
食品は長い間、空気(特に酸素(O2))に触れると、酸化によって味や色が変わってしまうことがあります。たとえばポテトチップスのように油を使った菓子では、その油の酸化が気になるところです。そこで各メーカーは、空気のかわりに袋に窒素ガス(N2)を充填して、この酸化を防いでいます(※1)。
つまりこれは、「N2が他の物質と反応しにくい」という性質がうまく利用されている例だと言えます。
ある元素が他の元素と結び付くには、互いに「手」をつなぐことが必要です。これを「結合」といいます。O2は、酸素原子同士が2本の手をつなぎ合った二重結合をもっています(O=O)。一方、N2は3本ずつの手をつなぎあった三重結合からなっています(N≡N)。二重結合、三重結合と結合次数が上がるにつれて結合エネルギーが増え、強度が増していきます。その中でも、N2は既知の物質の中で「最強の結合」を持っています(※2)
文字通り、一本では弱い結合も三本になると頑丈になる、というわけです

この元素レベルでの「三本の矢」の話は、スナック菓子の保存性に留まるものではありません。 窒素は私たちの体の中で、タンパク質やDNAを構成する重要な元素です。私たちは食べ物を通して窒素を補給しています。空気中のN2を、そのまま取り込んで使うことは当然できません。それは他の動物や、植物も同様です。だからこそ、作物を育てるにあたって、植物が吸収できるような形に変換された肥料(とくに窒素肥料)は重要なのです。
では、頑丈な「三本の矢」を折って、空気中のN2を生物圏で利用できる形にするには、具体的にはどのような方法があるのでしょうか?
現在は大きく3つのルートがあると言えます。
まず1つ目は雷による放電です。空気中のN2がN2OやNO、NO2といった窒素酸化物に変わります。
そして2つ目はマメ科植物に共生する微生物などによる「生物的窒素固定」です。ここまでが、20世紀になる以前の、自然の循環における窒素固定でした。
そして第3のルートとして登場したのが、「化学的窒素固定」です。
20世紀初頭の時代の要請により、ドイツの化学者であるハーバーとボッシュが、化学的に下記の反応式のように、N2と水素(H2)からアンモニア(NH3)を合成する方法を編み出しました。それがハーバー=ボッシュ法(以下HB法)です。
N2 + 3H2 = 2NH3
HB法によるアンモニアの工業的生産により、土地をやせさせることなく農作物を作り続けることができるようになりました。その結果として、いま私たちが食べ物を口にすることができるという事実を忘れてはなりません。自然循環による窒素固定では急激な人口増加に伴う需要を補えず、人類は重大な食糧不足に陥っていただろうと言われています(※4)。特にハーバーはそのHB法確立の功績をたたえられ、1918年にノーベル化学賞を受賞しています
アンモニア生成の反応式はとてもシンプルですが、実際は100-250気圧という高い圧力、300-550℃という高温条件が必要です。すなわちその反応には、莫大なエネルギーの投入と大がかりな設備が必要となります。(※4)
しかし一方で、私たちが意識しない日常の風景の中で、高温高圧条件を要することなく、微生物は淡々と窒素固定をしています。そういった点から近年注目されているのは、微生物が行っている生物的窒素固定のように、常温常圧のような「穏やかな条件」でアンモニアを合成する技術開発です。
微生物は窒素固定反応に必要なエネルギーコストを下げるために、ニトロゲナーゼという酵素を使っています。ニトロゲナーゼは主にモリブデンを含有する金属有機錯体です。
これまでに、温和な条件でモリブデンやタングステン、ハフニウムなどの錯体を触媒として用いたアンモニア生成の例が報告されています(※2,5)。
最近では、東京大学の西林教授によって、炭素化合物「C60フラーレン」と呼ばれる炭素化合物を利用したNH3合成の成功例が報告されています。(※6)

実はこのC60フラーレンこそ、サッカーボールのような分子構造を持っている物質なのです。西林教授らの成果は、これまでの常温常圧でのアンモニア合成と異なり、金属元素を使わない反応が見出された点が画期的でした。
さらに西林教授は、アンモニア合成コストを下げることができれば、化石燃料を大量消費する製造法から脱却するだけでなく、アンモニアそのものを化石燃料に代わるエネルギー媒体として利用することも提案しています。(※7)
これらの常温常圧でのアンモニア合成に関しては、事業化・工業化に向けて、より高い反応効率を目指して研究が進められています。
空気中の窒素を固定するHB法によって私たちは豊かな食を享受していますが、一方で、農業・工業・生活排水に含まれる大量の余剰窒素成分が海洋に流出したことによる「地球史上初の汚染」(※8)など、生態系へ悪影響があることも忘れてはなりません。そして、食糧供給量が増えたといっても、世界における食のアンバランスといった問題もあります。
新たな窒素固定技術ができたとしても、結局は科学技術を使う私たち自身がどう行動するかが重要です。サッカーのように、広い視野とチームプレーで、食糧の安定供給・地球環境保全を目指していきましょう。
※1 カルビーお客様相談室/よくある質問
※2 DJ Knobloch et al (2010) Nature Chemistry Vol. 2 pp30-35
※3 絶対わかる化学結合(2003)齊藤勝裕 講談社,p43
※4 ビジュアルエイド化学入門(2008),講談社,竹内敬人,pp130-133
※5 DC Yandulov and RR Schrock (2003) Science Vol. 301, pp76-78
※6 Y Nishibayashi et al. (2004) Nature Vol 428, pp279-280
※7 (独)新エネルギー・産業技術総合開発機構 刊行物パンフレットより(p.3)
※8 「生物多様性とは何か? 地球の未来を考えるために知っておくべき重要ワード」Newton 2010年06月号,p38