やわらかサイエンス

地球を巡る金属錯体の血潮

第56回担当:秋山 克(2009.06)

本州ではそろそろ梅雨の季節ですね。当地北海道では、春から初夏にかけての過ごしやすい季節となりました。草木の緑がこれからますます濃くなっていきます。


緑の風景

その緑色の源は、みなさんご存じのようにクロロフィルと呼ばれる色素です。クロロフィルは太陽の光エネルギーを、他の生命が使える化学エネルギーに変換してくれます。植物が「生産者」と呼ばれ、食物連鎖の起点となる所以の物質です。


クロロフィルは、その結合の仕方から「金属錯体」とよばれる化合物の仲間に含まれ(※1)、ポルフィリン骨格という有機物の構造の中にマグネシウムイオンを持っています(※2)。


クロロフィルのポルフィリン骨格部分のイメージ
クロロフィルのポルフィリン骨格部分のイメージ

あまり聞き慣れない言葉ではありますが、金属錯体の仲間は、生体で重要な役割を果たすものが多いことが知られています(※3)。
中でも、最も「有名」かつ「重要」なものと言えば、ヒトの血液にも含まれるヘモグロビンが挙げられるでしょう。ヘモグロビンはその構造の中に「ヘム」という金属錯体を持っているのです。


さてここで問題です。
ヘモグロビンが持っている錯体中の金属イオンは何でしょうか?


これはもうみなさんお分かりですね。そう、です。


ヘモグロビンは、ヘムの鉄イオンに結合した酸素を体中に運んでいます。食事などから鉄分が補給されなくなると、ヘモグロビンの濃度も減少してしまうことになり、結果として体中に酸素が行き渡らなくなってしまいます。


このように、生命活動に必要な鉄は、当然のことながら栄養学的にも必須の成分です。植物や動物に由来する多様な食品を食べることで、適量を摂取できるようにしたいものです(※4)。


地球で最も多い元素(重量比)/鉄のイメージ

地球で最も多い元素(重量比)は鉄です(※5)。その鉄を、生命が数十億年の進化の過程で、うまく代謝の中に取り込んでいったのですね。鉄の塊をなめても鉄分補給とはならないように、どんな物質でも、生体内を移動しやすい形にならなければ吸収も活用もできません。


食物連鎖の起点である植物から考えてみましょう。鉄イオンはFe2+あるいはFe3+という形をとりますが、植物は、土壌中の鉄をFe2+の形で吸収します(※6)。


土壌中において鉄がどれくらい溶けやすいかを考えたとき、土壌のpH(酸性~アルカリ性)やEh(好気的~嫌気的)の影響を考慮しなければなりません(※7)。
たとえばFe2+は、pH4以下の酸性では安定して存在していますが、中性からアルカリ性ではFe3+となって急速に沈殿してしまいます。一方、酸素が多く存在する好気的な土壌では鉄はほとんどFe3+となりますが、水田のように湛水されて嫌気的状態が発達するとFe2+が急速に増加します。つまり畑のような環境条件では、鉄の大部分が不溶性となってしまい、植物にとって利用できない状況になってしまいます。


では、その危機を乗り越えるために、植物はどのような適応戦略を持っているのでしょうか?


鉄欠乏に強い植物の一つに、オオムギが挙げられます(※6)。1960年代に、オオムギが根からキレート物質(錯体を形成しうる物質)を分泌し、難溶解性の鉄を可溶化する能力があることが示されました。ムギネ酸と名付けられたこの物質は、Fe3+と錯体を形成して鉄を取り込みやすくしていたのです。オオムギだけではなく、イネ科植物の根からそういったキレート物質が積極的に分泌されることが分かっています。


土壌においては、生命そのものが原動力となって、鉄の循環を駆動させていると言えるでしょう。



根の周りのミクロスケールに限られた問題ではありません。当然のことながらマクロにスケールアップした物質循環でも、鉄錯体が重要な役割を果たしていることが示されています。


アムール・オホーツクプロジェクト(※8)では、国内の20を超える大学等の研究機関、そしてロシアおよび中国の研究者が多数参加し、アムール川周辺の陸域と、オホーツク海から北太平洋にまたがる海域における物質循環に関する研究が進められています。


植物が土壌に供給した有機物は、土壌動物や土壌微生物の作用を受けてフルボ酸などの腐植物質となります(※9)。それらの腐植物質は土壌中のFe2+と錯体を形成し、溶存状態を維持したままで、土壌外に流出するのです。
このプロジェクトでは、アムール川流域の森林や湿原が鉄の供給源となり、それらの鉄がアムール川からサハリン湾に流出、そして海氷(流氷)生成によって生じる海の循環に乗ってオホーツク海、さらには外洋の親潮にまで輸送されることが明らかとなりました。つまり、「鉄を中心とする優れた陸域-縁海物質循環システム」(※10)の存在が確かめられたのです。



地球を廻る鉄錯体の輸送イメージ

こうやって見てきますと、数千キロに及ぶ鉄錯体の輸送は、まさに生物圏を巡る血液の循環のように思えてきます。


アムール・オホーツクプロジェクトでも示しているように、「アムール川流域で生成される溶存鉄は、湿原と森林の存在に大きく依存」します。すなわちそれは、植物が分泌する物質、あるいは植物体そのものが土壌に供給されなければ、その循環が起こりえないことを意味します。元をたどれば、クロロフィルという金属錯体が、太陽エネルギーを化学エネルギーに変換するところに端を発していることは言うまでもありません。


アメリカの生態学者D.W.ウォルフは植物についてこう述べています(※11)。


「植物は地表と地下の両方で『同時に』生きる点でこそ独自である。植物は二つの王国の偉大な仲介者なのだ。」


光合成によって作り出された有機物と、大地からの頂き物である金属。 それらが結びつけられた金属錯体もまた、有機物と金属という二つの王国の偉大な仲介者であると言えるでしょう。




参考資料
※1 大学の基礎化学 喜多英明・市川和彦 共著 学術図書出版社、1991
※2 有機化学美術館へようこそ ~分子の世界の造形とドラマ~、佐藤健太郎、技術評論社、2007
※3 生化学辞典、今堀和友・山川民夫 監修、東京化学同人、2002
※4 五訂増補食品成分表2008、香川芳子監修、女子栄養大学出版部、2007
※5 地球化学概説、日本地球化学会 監修、松久幸敬・赤木右 共著、培風館、2005
※6 植物栄養・肥料学、山崎耕宇・杉山達夫・高橋英一・茅野充男・但野利秋・麻生昇平、朝倉書店、1996
※7 土壌生化学、仁王以智夫・木村眞人、朝倉書店、2004
※8 アムール・オホーツクプロジェクト
※9 土壌学の基礎-生成・機能・肥沃度・環境-、松中照夫、農山漁村文化協会、2003
※10 日本学術会議
※11 地中生命の驚異-秘められた自然誌-、デヴィッド・W・ウォルフ 著、長野敬・赤松眞紀 訳、青土社、2003