やわらかサイエンス

キラリと光るキラリティー

第30回担当:秋山 克(2005.11)

プロ野球の今年のシーズンも終わりました。みなさんのひいきの球団や選手の活躍ぶりはどうでしたか?野球選手には投打に「利き」があり、イチロー選手や松井(秀)選手は右投げ左打ちです。実は物質の世界にも「右利き」「左利き」が存在します。今回のやわらかサイエンスでは、物質の世界で右利き左利きを表すキラリティーについて触れてみたいと思います。


キラリティーは

キラリティーとは「掌性」ともいい、鏡に映した形(鏡像)がもとの形とは違うことをいいます(※1)。「掌性」と言われることから分かるように、キラリティーは右手と左手の関係にたとえられます。右手と左手はお互いに鏡に映した対称的な構造を持っており、親指・小指というように構成要素は全く同じ。指の順番も同じです。しかし、野球で左手用のグローブを右手で使うことができないように、キラリティーを有していることによって構造が異なっていることが分かります。つまりこれは、鏡に映した形(この場合は右手)がもとの形(左手)と異なっている、ということを意味しています。それと同じように、物質の世界でも、炭素や水素といった構成要素は同じ、またそれらの元素の付く順番も同じなのに、お互いに鏡に映した関係にある物質が無数に存在するのです。これらのキラリティーを持つ構造をキラルな構造と呼びます。


物質世界のキラリティー

実はこの構造の違いは、わたしたちにとって意外と身近に存在し、かつ重要な意味を持つのです(※2)。柑橘系の香料や食品添加物として利用されているリモネンという物質がありますが、実はリモネンもキラルな構造を持つ物質です。しかも左型と右型で香りが異なり、左型リモネンはレモンの香り、右型はオレンジの香りを持っています。また、旨味成分であるグルタミン酸もキラリティーを持ち、左型だけが旨味を呈するのです。つまり、人間の鼻や舌は、分子構造のわずかな違いを鋭敏に識別しているのです(※3)。


リモネン

その一方で、キラリティーがもたらした悲劇もありました。妊婦用の鎮痛剤として使われてきたサリドマイドですが、右型のサリドマイドは有効な鎮静効果を持つのに対し、左型のサリドマイドは胎児に対して催奇性を有しているのです。なぜこのような薬禍が起こってしまったのかというと、通常の化学反応でサリドマイドを合成すると、右型も左型も同じ量だけ出来てきてしまうのです。その混合物が市販されてしまった結果として起きた事件でした。つまり、こういった化合物の(有益な)一方の型のみを選択的に合成すること(これを不斉合成といいます)は、医薬品開発、その他の化学工業の観点からも重要なことなのです。


2001年にノーベル化学賞を受賞した日本人がいました。名古屋大学の野依良治教授です(※4)。野依教授は金属錯体を利用し、必要な型の方だけの有機化合物を作り分ける触媒を開発したのです。化学者の長年の夢であった不斉合成の成功により、モルヒネ、Lドーパ(パーキンソン病の治療薬)、ビタミンEなど、幅広い分野の工業的大量生産の現場で触媒が利用されています。 ただ、金属を使った触媒では、その金属自体が高価で、また廃棄処理の問題もありました。そこで登場したのがアミノ酸の一種であるプロリンを用いた有機触媒です。プロリンは天然に大量に存在し、安価で安定、環境にも優しく、かつ比較的良い不斉合成の触媒性能を示すことが分かっており、その有用性が注目されています(※5)。


科学反応

ここで話はオーストラリアの隕石に飛びます。
1969年、オーストラリアのメルボルン郊外の町に、巨大な火球が落下しました。マーチソン隕石です。マーチソン隕石は揮発性成分を多量に含み、また80種類以上のアミノ酸が検出されました。しかも、そのアミノ酸は左型の比率が高くなっていました(※6)。実はわたしたち人間の体も左型のアミノ酸でできています。太古の昔、隕石などの宇宙からの落下物によって、生命の素となる左型のアミノ酸がもたらされたと考えることも出来るのです。


通常の化学反応では、キラリティーを有する化合物は右型と左型で同じ量が生成するはずです。宇宙では、いったいどのようにアミノ酸の不斉合成が行われたのでしょうか?


横浜国立大学の小林憲正教授の研究により、一つの可能性が示されました(※7)。星の一生の最後に超新星爆発が起き、それによって生じた中性子星から放射される「右回りの光(右円偏光)」の影響の可能性です。中性子星から放射される右円偏光の照射によって、右型のアミノ酸が分解され、結果として左型アミノ酸が残存。それらが地球に降り注いだとする説です。教授らは、NTT放射光施設のシンクロトロン加速器を利用し、一方のアミノ酸が他方よりも多く分解されることを実験的に確認しました。


右回り左回り

こういった研究は、生命の起源の探索に留まるものではありません。円偏光を利用した新しい不斉合成技術は、右型か左型かという点が重要視される医薬品開発や化学工業の発展にも大きく貢献することが期待できます。


11月17日前後に、今年も獅子座流星群がやってきます。もしかすると、彼らが載せているものは、地球生命の故郷であり、化学のさらなる可能性なのかも知れません。野球中継のなくなった夜に、キラリと光る流れ星に向かって願いを唱えるのもいいでしょう。でもこれからの季節、寒さ対策はお忘れなく。